北山耕平さんの北山茶会(追記あり)
2011年のおはなしです。
3.11の震災以降、北山耕平さんが「北山茶会」と称して全国各地でおはなし会を開いていることをtwitterで知りました。
そのときとっさに思い浮かんだのが
(ぜひ飯能でもやってほしいな。そうしたら北山耕平さんの本をバイブルにしている友人がぜったい喜ぶな)
というちいさな願望でした。でも想像しただけでワクワクしました。
おはなし会の開催情報をみたら、なんと、近々そう遠くない場所で開催されると知り。
よし!まずはどんなものなのか、ひとりで行ってみよう!!!
そんなこんなで8月27日、
北山茶会@国立ナオカフェさんに参加したのでした。
(国立ナオカフェさんは、現在はお店を持たず活動されている模様)
ナオカフェさんに入るとたくさんの人・人・人!すごい密度。
なぜかおおきな亀も参加していました。(参加者さんのペット?)
北山さんは長髪で、象のようなどっしりした物腰と風格でした。
座布団に座ったみんなを前に、いよいよ北山さんのおはなしがはじまりました。
「8月27日、今日は諏訪のチーフ(首領)が殺された日 」
のっけから 1200年前の出来事を数年前の出来事のように語る北山さん。諏訪の地に住んでいた先住民族のチーフが討たれ、以来、この日に諏訪神社の祭礼が行われるときは風が吹き荒れるそうです。
話は縄文時代や弥生時代、インディアンの話になり・・・。後から来た人たちによって、力づくで、そして巧妙な仕掛けによって”なかったこと”にされる文化や歴史の存在をはじめて知りました。
このときの内容は、
後日、スペクテイターの記事全文を読んでさらに深く理解できました。
ご興味がある方のために、
参考までに末尾に一部抜粋の文と、全文のリンク(北山耕平さんサイト内)を貼っておきます。 (読み応えたっぷりのとてもとても長いインタビューです)
http://native.way-nifty.com/native_heart/2008/05/native_talk_spe.html
休憩をはさんだ後は
参加者全員が ”じぶんにとっての聖なるもの” についてを話すストーンサークルの時間に。
北山耕平さんが大切にしている青森の滝の裏で出会った丸くて平らですべすべした石を、話者から話者へバトンのように引き渡しながらのおはなしでした。(インディアンに伝わるやり方らしいです)
わたしはこのとき、「じぶんにとっての聖なるものはじぶんの体です」、と先日、右手小指を怪我したときのおはなしをかいつまんでしました。
ふたたび休憩をはさみ、みんなの話をきいた上での北山さんのおはなしタイム。
震災から半年も経っていない時期だったというのもあるでしょう。
あのときの全員の話からこみあげてくる魂の気迫は、本当に素晴らしく、今でも忘れられません。
トータル4時間半くらいはかかったんじゃないかな?
すごく濃い時間でした。
会場で北山さんの御本『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』を購入。
本にサインしていただいたときに、飯能でのおはなし会をお願いしたら、「いいですねぜひ!」とご快諾くださいました。(感激!)
後日、北山さんの空いているスケジュールを確認したら、
2011年12月22日の冬至の日が空いているとのこと。
なんともすてきな日に開催決定!
飯能の友人を中心に声をかけたらあっという間に参加希望者が17名集まり、 会場は日高の漢方薬局環さんが提供してくださることになりました。
しかしこのあと、
北山さんが11月11日満月の日に、脳出血で意識不明に。。。
北山さんの長い長い眠りの旅と、北山さんを慕う人々の祈りの時間がはじまるのでした。
(北山さんはその後、2012年3月に意識が回復。現在もスペクテイター最新号など、執筆活動中)
〜以下、スペクテイターインタビューの一部抜粋です。(任意改行しています)
(北山耕平さんのWEBサイトより)
自然のなかに一人 でいることを恐れない。
自然の中には危険がいっぱいあると思っている人達が大勢いるよね。
これには大きな誤解があって。
アメリカ・インディアンの人から言われたのは
「自分が入っていく自然を神聖なものとして取り扱うことができれば危険は一切ない」ということ。
熊と出会えば熊を神聖なものとして扱う。
ヘビと出会えばヘビを神聖なものとして扱う。
そこで起こっているあらゆることを聖なるものとして認識できれば、そこに危険はないわけ。
そこにあるもの全てだよ。
そうじゃないものが少しでも入ってきたときに危険なことが起こる。
そのためには何が聖なるものかを知る準備を早い時期から始めておく必要があるんだよ。
本当は親が子供に伝えなきゃいけないことなんだけど、
僕たちは自然に学ばなきゃいけなかったことを一切学ばされずに育ってきているから、
自然や聖なるものの 扱い方を間違える可能性が強い。
勉強しなきゃいけないことだよね。
10年かかるかも知れないし、20年かかるかも知れないけれど。
それを聖なるものとして扱うことができなかった結果は
何十年経とうと、どこかで出てくるから。